つらつら椿つらつらに

思ったところをそのまんま投げつけるのだよ

我思う、ゆえに我有り。とはなんぞや!

どうも、受験で一番好きな教科は倫理だった僕です。

 

倫理の教科書には必ず掲載されているだろうフランスの哲学者、数学者のルネ・デカルト。表題にもなっている彼の命題「我思う、ゆえに我あり」という言葉はあまりにも有名で、言葉が独り歩きしている。

受験参考書でもデカルト=「我思う~、方法的懐疑、方法序説演繹法」さえ覚えてしまえばなんとかなる部分もあって深く考えられることがあまりないのかもしれない。

この「我思う、ゆえに我あり」について考えたい。

f:id:nutty-nut:20160509011420j:plain

 

独我論という考え方がある。世界には自分ひとりしかいないんじゃないか?という命題のこと。要するに世界なんて本当にあるのか、という話なんだよね。

 

まず考えるのは、今夢を見ていないか、ということ。夢ってすごくて、見たことない世界にだっていけるしいろんな人も登場する。明晰夢っていう自分の意識下で見る夢もあるよね。もしかしたらこの今いる世界も夢の一部かもしれない…。あるいは、西暦3000年などの未来の世界から、仮想現実を暮らせるひみつ道具であそんでる最中で、そのことを忘れてしまっただけかも…。もっというと何かの病気で幻覚をみているだけ…。なんてこと、99.99…%ありえないけど、100%ありえない!とは断言できないんだよね。

 

僕はアメリカにいったことがない。アメリカについて書いてあるものやニュースは見ることはあるけれど、アメリカに実際にいったことがない。もしもこれが国をあげた壮大なドッキリで本当はアメリカなんてないって可能性は?いったことがあっても、そこが本当にアメリカだった保証は…?これもまた、99.99…%ありえない話だけど、100%ありえないとは言えない。某国の言論統制のようにゆがんだ事実も現実ととらえさせることは不可能ではない。

 

すごく幼稚なたとえになってしまったけど、目の前にあるものが本当にあるのか、については議論できないってこと。

 

また、僕の名前が山田太郎だとして、ドラえもんコピーロボットみたいな感じで、記憶も人格も完璧にコピーできて他人からは真の僕と区別がまったくつかないような奴がいたとするじゃない。僕は山田太郎だけど、このコピーの僕ではない山田太郎なわけ。だから”僕”には”山田太郎以外の何か”の部分があるはずなんだよね。

結局主観として世界を見てる視点っていうのがたまらなくスペシャルで、このスペシャルなものだけが存在している確かなものだっていうのが我思う、ゆえに我ありなんじゃないかな。この考える主観としての存在であることだけに無限の可能性がある。パスカルのいう、人は考える葦である、っていうのも僕は個人的には同じような命題で生まれた言葉なんじゃないかと思っている。

 

なんて考えることに1つだって実利益がないところがいい。絶対ありえないよね。

またあした目がさめて同じ世界で目覚められることが素晴らしい。